2011年の大震災と原発事故から丁度7年が経とうという3月10日、原発事故後の福島では象徴的な意味を持つ飯舘村で一つの興味深いイベントが行われた。立正佼成会の一食(いちじき)平和基金による助成を2年続けて受けている二本松市東和地区の若者グループ、「やさいのラボ」が行った事業の一環として実施されたトークイベントだ。フリーペーパー「みんなのきもち」Vol.2の発刊報告会を兼ねて行われた。「みんなのきもち」は震災後の福島の、主に農業に関わる若者の率直な気持ちを伝える冊子だ。
菅野瑞穂さん(左)と編集担当の春日麻里さん
福伝は2014年より同基金から福島県内外のNPOや市民グループの被災者・避難者支援活動等に対する助成スキームの運営を委託されている。「やさいのラボ」代表の菅野(すげの)瑞穂さんは飯舘村の隣の二本松市東和で有機農業を行う地域の若者リーダーの一人だ。
今回のイベントは「農とともに生きる若者たちの声〜未来の子どもたちにつなげる故郷への想い〜」と題し、事故直後共に農業を志しながら県外へ避難した飯舘村の若者二人が今の想いを語った。福島市に居住し将来は精肉店を開いて独立を夢見る山田豊さんと、北海道の栗山町に移住した和牛繁殖畜産農家の管野(かんの)義樹さんをゲストに迎え、瑞穂さんの進行で話を聞く形になった。山田さんは昨年の同様のイベントでもスピーカーとして参加している。
驚くのは若者二人が、若干の照れを伴いながらも、口を揃えて言う故郷や親に対する愛惜と尊敬の想いだった。特に都会では見聞きすることの少なくなった、子どもから親に対する直截的な尊敬の表明に、少々戸惑いながらも興味をそそられた。山田豊さんは福島市から飯舘村に通っている。父親は飯野町で畜産を再開しているが、稲作を止めた村内の田んぼで牛を放牧している。そんな父を手伝っているのだ。
山田豊さん(左)と菅野義樹さん
管野義樹さんは、土地の神様や祖先への想いを語り、現在に生きている人間以外の自然や文化、歴史や風俗などすべてが自分にとっての飯舘村でありかけがえのないものだという。この二人は、特に事故前から親の職業でもあった農業(畜産)を引き継ぐ決意があったからかも知れないが、ともすれば親を否定することから始まった多くの青春を見てきたものとしては、新鮮で清々しいものを感じる。
また、自分たちも含めた飯舘村の老若男女がそろって、言うべきものを持っているとし、それはこれまでの村が行ってきた人材育成のソフト事業の功績が大きいと語った。確かに、そのような村作りの実績から、飯舘村は震災前までは「までいの村」として全国に知られていた。
二人は事故前の村の若者達のつながりのなかで、村を離れた今でも、多くの仲間と連絡を取り合い、それを維持していこうと考えている。それは強い村への愛着と帰属意識に裏打ちされたものだ。これからも「故郷である飯舘村となんとかして関わりたい」と強く思っている。
昨年の春、飯舘村は村内の大部分の地域で避難指示が解除された。現在村に住民票を残しながら「避難」という立場を維持している二人は近い将来、他の多くの村民と同じく実際に村内に帰還しなければ現在生活している市町の住民となる。このことは自動的に飯舘村民では無くなるということを意味する。飯舘村に限らず7年前の原発事故の後、多くの住民が避難を余儀なくされ、様々な理由で帰還を選ぶことができないでいる。しかし、多くの避難者は原発事故という自分の責任の及ばない要因でもたらされたという事情を考慮されることなく、転勤などで居住地を移す他の転出転入者と同じ扱いで行政的な処理をされることに割り切れない思いを抱いている。
狭い国土に人口が密集した都市が点在する日本で起きた原発事故は、世界でも経験のないことだった。原発事故は長期的で広範囲被害をもたらす原子力災害となった。一時的な自然災害での経験が役に立たないことが多く起こり、それは現在まで続いている。その一つが避難の問題だ。自然災害では一部の例外を除き、元の住居に比較的短期間に帰還することが可能だった。しかし、今回の原発災害は広範囲に及ぶ放射能の汚染を引き起こし、その影響は少なくとも数十年続く。多くの避難者は元の生活には戻ることはできない。昨年(2017年)の春には飯舘村と同様に、事故を起こした福島第一原子力発電所のある、福島県の沿岸部の多くの地域で避難指示が解除された。しかし帰還したものは少ない。多くの避難者は自分や家族が避難先で新たに作り上げてきた人間関係や仕事、子どもの教育など、放射能の恐れや不安だけではなく、すでに避難先で生活が出来上がってしまっていることで、それらを再度ご破算にする帰還に踏み切ることができないでいる。
原発事故後、多くの研究者等により、避難した住民と自治体との特別な関係を制度的に保障すべきではないかという提言が出されている。それは、前述した不条理を解消し、避難者の「故郷につながる」権利を守るという根源的な意味を持っている。選挙権などに踏み込むと法的な整合性が取りづらくなるので議論が先に進まないが、避難者が求めているのは、たぶんそのような政治的な権利ではない。避難者が実質的に故郷との関係を維持できる「立場」を保障する村としての公的な位置づけと、つながりを維持するための具体的な便宜供与がその始まりとなるだろう。そのような避難者の心情を理解し、ともに知恵を絞る「までいな」対応こそが今求められている。
飯舘村は幸いなことに多くの村民が福島市とその近隣に避難している。村と村民の関係について話し合いを始めることは比較的容易だ。この二人の若者に代表される避難者を、引き続き村のサポーターとすることができるかどうかの重要な局面だろう。もし、飯舘村で新しい試みが始まるならば、それは福島県内の他の自治体と避難者にとっての良い先例となるに違いない。(竹内俊之)